長期休暇の楽しい時間も終わりここから真剣に働いて毎日の生活費を稼いでいかねばならない。世の中大半の人はとっくに仕事始めを済ましているだろうが僕は学生さんよりも長い休暇となった。

体調は良い。一時体調を崩したが既に全快している。休み過ぎて体力の低下を疑うくらいだ。

同じドヤに住んでいた人で最近見かけなくなった人が居た。引っ越したのかなと思っていたが昨年亡くなっていたらしい。他の住人の話によると癌を患っていたそうだ。まだ50に届くか届かないか程度の年齢だった。あのくらい元気だった人が癌で突然死ぬのなら自分もいつ死んでも不思議ではないように思う。日本人の平均寿命と言われる80までの時間が自分には残されていると信じているがそうではないかもしれない。

僕は死というものは待つものであると思っている。稀に自死を選ぶ人もあるが現代のほとんど全ての人が死は待つものだと捉えていると思う。武士なんぞはそうでなかっただろう。この前小田原城に行ってから自分も戦国時代に生まれてみたかったという妄想が止まらない。僕が戦乱の時代に居たならきっと立派な侍になっていたかと思う。家来も大勢居て侍の見本として讃えられていただろう。武士の僕に言わせれば命は捨てるためにある。今は命が最も尊いとされているが命よりも誇りが大切だとされていた時代もあった。誇りや誉れは今の時代は随分と価値を減じたようである。

僕の家が侍の家系であったという話は聞かないから恐らく代々農民の家柄であったのかと思う。先祖の事は良く知らない。家系図なんかも見た記憶が無い。おじいちゃんがどのような仕事をしていた人なのかどこで生まれ育った人なのかも知らない。仏壇に飾ってある遺影で顔を知っているだけだ。随分長い事その遺影を目にしていないがおじいちゃんの顔は忘れていない。2代前でさえ曖昧だから更に前にはどのようなご先祖が居たのか全く知らない。僕以上の怠け者も存在しただろうか。子供を作り育てるという事は完全な怠け者には不可能であろうから多少は勤勉な人達がご先祖なのだろう。何代続いて今の僕が居るのか知らないが僕が誕生するまでに大勢の人達が関わっているのに誰一人として財産を遺してくれなかった。僕という人間が誕生するまで命を繋いでくれたのだから感謝するべきではあると思うが一生遊んで暮らせるほどのお金を遺してくれていたなら今よりも更に感謝出来たと思う。

ご先祖たちの中にもどうやらお金持ちは居ないようだし僕が貧乏なのも仕方ない。せめて自分の子供には貧しい思いをさせないよう決して子供は作らないようにしないといけない。人の嫌がる事をしてはならない。この言葉は子供の頃から周囲の大人達に何度も言われた。人の嫌がる事をしてはならないから子供を作るなど考えてはいけない。今よりもずっと年を取れば猫を一匹飼いたいとは思う。



北野天満宮で学業成就のお守りを甥と姪に買い渡したが自分用にも2つお守りを購入した。1つは交通安全のお守りでこちらはウーバーの配達員として働いているから購入した。もう1つは技芸上達のお守りだ。
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技芸と言うのは芸術分野全般を指すらしい。僕の場合は文章力が向上すれば良いなと思い買った。交通安全のお守りはウーバーの配達カバンに付けている。技芸上達のお守りは玄関扉に吊している。これで部屋全体に英気が漲るのではないかと思う。

これまでこのブログでは○○である。と言う書き方をしてこなかったが数日前から使用している。であると言う書き方は大変偉そうな雰囲気が出るから今までは避けていた。であるを使う方が違和感の無い文章や偉そうに聞こえない場面では今後使用する。新しい年を迎えた事だし文章も新しくするつもりでいる。

白状するとお守りの効果は信じていない。お守りを作っているのが人間ではなく神様であるなら多少お守りの効果を信じるかもしれない。それでもけちんぼの僕が2つ合わせて1700円の出費をしてまでお守りを購入している。矛盾だ。

世の中には自分の力だけではどうにもならない物事がある。お守りが目に見えない手助けをしてくれれば嬉しい。お守りを購入する時は少し高価なキーホルダーとして購入するのだと考えた。効果は気休め程度に思っていた。今はそれなりに効果を認めている。お守りの効果と言うのは誤りかも知れないがお守りがあるのと無いのでは自分の心の状態が違う。今お守りを無くしたら相当必死になって探すと思う。

お守りを購入した際はこんな物はただのキーホルダーだと思っていたから扱いはぞんざいだった。購入したら巫女さんが小さな袋に1つ1つお守りを入れてくれる。僕のお守りは2つまとめて袋に入れてくれと伝えると神様からの貰い物だからとか神様からの授かり物だからとかで袋を分けるよう勧めてきた。そうか。そういうものか。と思ったが結局その後袋はすぐに捨てた。袋の中のお守りにしか用は無いのだからあっても邪魔だ。ところが今は申し訳ない事をした気がしている。今ならお守りの袋を捨てない。という事は無いだろうがそこまで巫女さんが言った袋なのだからもう少し申し訳ない気持ちで捨てるだろうとは思う。お守りを購入し身の回りに置いて毎日眺めているうちに心境に変化があった。お守りの効果を信じない自分から信じたいと思う自分に変化している。



帰省した際に姉との間で年を取ると趣味が減るという会話をした。姉も頻りに頷いていたため加齢による趣味の減少は思い当たる人も多いのではないかと思われる。

趣味の減少は結果であってその結果を引き起こしているのは情熱の減少に違いないと僕は考えている。熱量を必要とせず落ち着いた心で向き合える趣味ならばむしろ若い頃よりも今の方が楽しめるのではないだろうか。そのように考えて瞬時に思い浮かぶのは盆栽や釣りや将棋に俳句などのお年寄りに人気の趣味だ。僕もそろそろお年寄りに近い年齢に差し掛かっているのでそういった趣味に手を出してみようと考えた。

盆栽・釣り・将棋・俳句。この中で僕が取っつきやすいのは俳句かなと思う。釣りは挑戦しようと思い釣り竿も餌も手元にあるが未だに行かない。スーパーで魚を見る度に思う。真っ暗な海の底からあんな得体の知れない魚がやって来たらとんでもない気持ちになる。しかもスーパーに並ぶ魚と違い生きている。怖い。魚はとても怖い見た目をしている。味が良いから外見の怖さに皆さん目を瞑っているだけで奴らは相当怖い。死んだ魚のような目をしているなどと言う言葉があるから魚の目が怖いと言う認識はあるようだ。もし魚に1時間見つめられたら誰もが精神を悪くするだろうと思う。

将棋を覚えればドヤ街では退屈しない。寿町では青空将棋が盛んに行われている。いずれは将棋にも手を出すかもしれない。

俳句に似たものとしては短歌と川柳がある。あまり違いを知らないので今回初めて勉強した。俳句に関して僕が持っている知識は学校教育の枠を出ない。俳句というのはいわゆる詩の体裁を整え(5・7・5の17文字)詩に規律(季語)を与えた物だ。俳人として有名な人に松尾芭蕉・小林一茶・正岡子規・高浜虚子・種田山頭火が居る。

素人の僕には季語を探るだけで面白い。季節毎の動物や植物や季節に密着した生活習慣なども季語になるためこの生物は春に密接した生き物なのだなとか夏になるとこの植物は最盛を迎えるのかなどと知る事が出来る。

文章の中で最も好きなのが若い頃は小説だった。今は小説を読むのが辛く感じる。物語を楽しむのはなかなか体力がいる。書物というのは能動的に味わうものだから長時間読んでいるのが辛い。映画は受動の体勢でいられるからまだ楽しめる。その点俳句は短いから良い。詩は長くなることがある。全体の意味を把握して細かな意味合いを知る必要もある。正直に言うと詩は読んでも何だか意味が分からない作品が多いが俳句はまだ意味が分かる。俳句は全て17字だ。17字で尽きるのだから潔い。

良いなと思う俳句を載せてみる。

朝顔に つるべとられて もらい水。
つるべというのは井戸桶の事だ。桶に朝顔が巻き付いて使えないからお水が汲めない。そのため他の人から貰いましたよという意味だ。

梅一輪 一輪ほどの あたたかさ。
梅の花は小さいがその小さな一輪を見るとかすかな温もりを感じるという意味だろう。

行水の 捨てどころなし 虫の声。
行水は風呂の湯の事だ。昔は庭にタライを置きそこで湯を使って体を洗った。使った後の湯を捨てたいがどこからも虫の鳴き声がするから捨て場所が無いという意味だ。

俳句に興味のある人が多いとは思えないが俳句を理解すれば日本人の心が分かるような気がする。俳句を作ろうとはまだまだならないが名作と言われる俳句を読んでいこうと思う。新しい趣味になりそうだ。